たぬきたん(奇譚)第十話

たぬきたん(奇譚)

 私は大山田五郎。
 江古田の街をなんとなく愛するひとりの男である。
 おっと、言葉ひとつに、そう声を荒げないで頂きたい。
 このような呑気な街を「叙情的に」愛すことなどできない。
 私がもし江古田の街であったなら重すぎる愛は御免であるし、そもそも、なんとなく、で調度良いのが愛というものだ。
 レトロな通りだと謳いつつも、電光掲示板やLED照明など目新しい道具が大好きな商店街。
 住めば都とはよくいったもので、都と呼ぶのがはばかられるほどに閑散とした、冬の日であった。
 とはいえ私は根っからの照れ屋であるからして、己の江古田愛は南口の太陽にて週三回以上にぼしらーめんを食するという事実からもご理解いただけると思う。
 言葉よりも態度で示す男、大山田五郎である。

「アニキ、今日はパクチーないんですかね、パクチー」
 先日瓢箪で タイビールの肴として注文したソムタムサラダがあまりに美味しく刺激的であった。
 予想通り青パパイヤの入手は大変困難で、勇敢にも人参と大根でそれを再現しようと試みているのである。
「ああ、今日は無いね、無い。なんだよ、五郎ちゃん料理なんかすんの!彼女でもできたの?」
 八百屋のあにきは、北口の江古田市場が幕を閉じてからも市場通りで営業を続けるまるっと元気な八百屋である。
 まず名前が妙である。
 他の業種に置き換えてみたら「カレー屋のヤンキー」だとか「金物屋の小娘」といったところで、しっくりこない。
 本の見出しや映画のタイトルくらいなら風情がつくものの、如何せん八百屋である。
 社長は私ともあまり年の変わらないアニキで、既に八百屋の風格だとか多少乱暴な言い草だとかガニ股歩きだとか、とにかく八百屋らしい。
 りっぱな大根を眺めながら横目でアニキの働きっぷりを眺めていた。
 話は変わって私は信濃の国の生まれである。
 上京して既に十年近くになる今でも八百屋で手に取るのは長野産のキノコや果実だ。
 孝行息子とは程遠い私とて、故郷の経済を想う心くらいは持ち合わせている。
 先日、しみのできた茶色い封書を受取り大学九回生に進級が決定した。
 目先のしいたけパックの裏側に嘆き悲しむ母の姿が見え隠れするのだった。気の迷いで購入した「しいたけ栽培セット」の原木を飽きもせず眺めていた母の横顔が、懐かしい。
 本日もレジ横の長野産干し柿をささっとカゴに入れた。
 干し柿は、ブランデーに浸しながら食べると意外にもよい肴になる。
「今回は他行って探してみますよ、パクチー」
 レジの男に声をかけると「そですか」と一言。
 お釣りを大雑把に飛ばしてくるので飛んでいきそうな野口英世を家族のように大事に拾い上げなければならなかった。
 真冬の商店街のつんと澄んだ空気が鼻をぬけていった。

 童謡が大音量で流れている。
 商店街のBGMはのんびりした昼間の風景を演出するいっぽう、間が抜けたかんじがする。しかしながら時折口ずさむ自分がいるのも事実である。
 ―鬼のパンツはいいパンツ 十年はいても破れない―
 ―はこう、はこう、鬼のパンツ、ヘイッ―
 十年か、そんなに物持ちのいいパンツを売りだせばあの小さな洋服屋も大儲けではないか―。
 そんなことを思いながら、ゆうゆうロードにはいる。
少し歩いた所で目を引いたのは丁寧に並んだ鮮やかな赤、黄色、緑。
 フクミ青果の軒先は、絵の具が並んだパレットのようである。人をわくわくさせるエネルギーがある。
「せ、ん、ぱ、いっ。偶然ですねえ。僕ちょうど伊勢屋できなこもち買ってきたところなんですよ。バレンタインも近いですし一緒に食べません?」
 背後から尾丸である。
 尾丸は生まれも育ちもこの街で、北口から十五分ほどあるいたところに大家族でわらわらと暮らしている。
 突然の来訪者に狼狽して、きなこ餅のきなこばかり口に入れたときみたいにこほこほと咽せた。
「どうしてバレンタインの名目でわざわざお前ときなこ餅なんだ。そもそもお前、だいぶ前にアイバさんをお誘いしたデートはどうだったんだ。お前の素行になんかゴマ粒ほどの興味もないが、あんなに騒いでおいて…」
尾丸の眉毛がひょろひょろと下がってゆく。
「雨だったんですよ」
「あめ…?」意外な理由に、つい低い声で聞き返した。
 雨の中カエルのようにはしゃぐいつもの尾丸はどこへいったのか。
晴耕雨読の教えを頑なに守ってきた私とは違う。
「当日すごい雨の中、三〇分前にはBeBeの前に着いてました。BeBeの隣の通り、奥にある薬屋さんで口臭防止のガムでも買おうと思って、途中で変にコケたんです。前向きに転んだはずが、どういうわけかお尻はびしょびしょ!せっかくの勝負パンツまで!
そのまま我慢しようと思ったけど、お腹痛くなってきちゃって。ただでさえ緊張してたのに、もうだめだあ、って。それでキャンセルしてもらったんですよ」
 まるで歯医者の予約をキャンセルしたみたいに話すので、呆れて言葉も出なかった。
 裏に走って行って乃がたのお母さんに助けを求めればストーブでパンツくらい乾かしてくれただろうし、そもそもBeBeの前にいたのだから新しいパンツを買って履き替えるだけの話である。
 この不憫な男の腹部を救いたまえ、ソーメン。
 両手が塞がっていたので心のなかで合掌した。
「…おい、夕飯は温かい素麺にでもするか」
 あずま袋のなかから先ほど買った乾麺の袋を出して見せると尾丸は犬のように目をきらきらさせて喜ぶのであった。
「賛成!そもそもなんで素麺は温かくなるとにゅうめんって呼ぶんですかねえ、将棋でいったら『と金』みたいな感じですかね」
「どっちかというと出世魚みたいなものじゃないか。ハマチがブリになるような」
「あ、じゃあ素麺はやめて、このまま鳥信行っちゃいます?もちろん焼き鳥もうまいけど魚もいけるんだよなあ。」
「すまんが金欠なんだ。誰がなんと言おうが、素麺にする」

 ふたり日が暮れはじめたゆうゆうロードを北へ向かって歩いてゆく。
 結局ソムタムの予定がにゅうめんになった。
 にゅうめんが焼き鳥になるのを私は断固拒否したのだが、先日まさにその鳥信にて鯖味噌をつついていたことは尾丸には言わずにおいた。
 留年決定について何時間も詭弁を垂れ、温厚なおやじを怒らせてしまったことも。
 明日は何処へ行くのだろうか。
 学校へ行け、と母の声が聞こえた気がした。

「たぬきたん(奇譚)」第十一話

[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香