たぬきたん(奇譚)第十一話

たぬきたん(奇譚)

 私の名は大山田五郎。
 この街江古田を日々猫背でさまよう大学生である。
 私の丸まった背中がますます磨きをかけて丸まっているのは、この厳しい寒さのためだけではない。
 一ヶ月ほど前、私の在籍する大学の霧島教授から一通の封書が届いた。
 中には畳んだ一筆箋が入っており、霧島教授らしい丸文字で「きみのねえ タブりが先ほど 決まったよ」とだけ詠まれていた。
 結局私は四月から九年生になるらしい。
 九年、という時間を想う。
 赤ん坊は習字を習いはじめ、見事な筆使いで努力、と書き上げるようになる。
 ナポレオンであれば十年でヨーロッパ大陸の大半を支配下に収めたし、レセップスも同じくして世界最長のスエズ運河を完成させている。
 九年というのは人を大きく変えうる。
 私はこの九年で、何をしてきたのか。

 この九年間で食したラーメンの麺をつなげてみれば、約二十五キロある石神井川に負けないほどの長さになるし、完食した定食のお盆を重ねていけば駅前のライオンズマンションの高さにも匹敵する。
 九年の間に訪れた居酒屋の赤提灯を収集したあかつきには妖怪も躍り出るほどの愉快な提灯ロードができて観光の名所となるであろう。
 それ以外はこれといって何事も成さなかった。
 田舎で吉報を待つ母の堪忍袋もはちきれんばかりである。
 母の怒りは私の背中の上のほう、肩甲骨あたりに突然現れたおおきなデキモノとして具現化した。
「先輩、病院行きました?」
「行った行った。小指ほどの軟膏をひとつ出されただけで、部屋を綺麗にしないと身体に悪いから早く帰って家の掃除をするようにと言われた。まるで占い師みたいなことをいいやがって」
「ふふふ。あとで絆創膏貼ってあげますからね」 
 デキモノは毛虫ほどの大きさがあり、中には黄色の液体がたっぷり詰まって今にも爆発しそうである。
 無数の皺が寄ったそのデキモノを私は「急性いぶりがっこ」と名付けた。
 いぶりがっことは、みなさまご存知の通り秋田の美味しいタクアンである。
 ひょいと、絆創膏の箱が夜空に舞い上がる。
 後輩、尾丸は他人事とばかりに、人通りの多いゆうゆうロードのど真ん中でまた箱を空に飛ばした。傷がはやく治る、と謳った銀色の文字が空に浮かぶたび、日暮れの商店街できらきらと雪が舞うみたいだった。
 和雑貨屋の軒先で、姉さまが店じまいをしながら私たちの姿に気づいてウインクした。以前私が狸の置物を探して長時間居座ったため今ではファーストネームで呼び合う仲になってしまったのである。
「やだあ、久しぶりね五郎ちゃん。いい狸は見つかったの?」
「お陰さまで。がらくたやに、なんだかいやらしい狸がいたもんだから即決しちゃいました。色々探してもらったのに申し訳ない…」
 他の雑貨屋にて購入してしまったことを私は正直に詫びた。
「あっはっは!いやらしい狸!いやらしい!」
 姉さんは実物を見てもいないのに大層面白がり、左手で腹をかかえて笑った。

 興奮した姉さんの手持ち無沙汰な右手が大きく振りかぶったとき、尾丸が遠慮がちに声をあげた。
「あ、佐藤さんそこは…」
 尾丸の微かな悲鳴と、姉さんの右手が勢いよく直撃する音、私の苦渋のうめき声が
夜の商店街に響いた。
 姉さんの歴史を刻んできた頑丈なてのひらが、急性いぶりがっこを叩き潰した瞬間であった。あまりの痛みに思わずしゃがみこんだ。
 あひゃひゃ、と姉さんがまた景気よく笑う。
 私は微笑むのもやっとである。
 「環」と書かれた粋なのれんに出くわすたび、私の古傷が傷むこと必至である。

 いつもの赤提灯まで、ほんの数メートル。満身創痍でたどり着いたときに蘇ってきたのは他でもない、小学生マラソン大会の苦い思い出だ。
 入り口の椅子にこしかけるやいなや、早速尾丸が私のシャツをめくりあげた。
 親父がテレビを見ながら笑っている。
「背中ちゃんと洗ってます?」
 無礼な男は片手で私のセエタアをもちあげながら器用に絆創膏をなぞる。丸出しの背中に滑り込んでくる石油ストーブの温かさ。
 ストーブのうえでやかんがぐらぐらと音をたてている。
 妖怪とうさぎと、とにかく得体のしれないお面がぞろぞろと哀れな私を見下ろす。
 最近はめっきりもっきり、ツイていない。
 私の心の声を受け取ったのか、尾丸はすぐ空になる私のグラスにビールを注ぎながら「ま、冬だし、じいっと耐える時期ってことですかねえ」と解ったような口をきくので少々腹が立った。
 どういうわけか通ってしまう、いわゆる、馴染みの店。
 それが私にも存在することになろうとは、今まで思っても見なかった。
 ヤドカリの要領で転居を繰り返し、見慣れた客だと思われぬよう飲み屋や喫茶店を転々とするほど人見知りの私が、ちょっと聞いてくれよ、とまさか口には出さないものの頭の先から寂しさをにじませることが徐々に多くなってきたのだ。
 漂う哀愁に気づかぬふりをしてくれるマスターの男らしさよ。
 年頃の女などは「どうしたの、どうしたのよう、景気悪いわあ」なんてかしましいことこの上ない。情けない男はそのまま放っておくのがよい。
 私も少しは大人になったということか―。
 焼きイカとともにじっくり噛みしめたそのときには、急性いぶりがっこの痛みなどすっかり忘れてしまっていた。
「先輩もうすぐ三十路ですからね、そろそろ落第してる場合じゃないですよ」
「お前さん最近昼間みかけないじゃないの、そんなに引きこもってたらケツにカビ生えちゃうよ」
 二人の進言に適当にうなずきながら残りのビールを飲み干した。
出てきた二本目のビールはしっかりと冷えていて、虚弱な胃にぴりぴりとしみた。
 確かに私はこの一ヶ月ほど、下宿から半径二、三百メートルの範囲でのみ生活をしていた。
 厳しい寒さのせいもあり、また江古田の北口付近で用が足りてしまうせいもあった。おそらくは、他の理由も。
 思えば江古田の街自体、町ではなく街、と呼べるだけの十分な生活要所が揃っておりわざわざ外に出なくても不自由はしない。
 私の下宿周りだけでも、腹がへったらなんとなく税務署のほうに歩いて行くだけでラーメンも洋食もうまいパンも食べられる。なんなら、税務署の食堂だって安くてうまい。カフェも古本屋もあるものだから何も考えずとも終日満喫している。
 しかしこれではいかんのだ。
 九年生の春からはこのままではいけない。どうしたらよいものか、皆目検討もつかなかったがとにかくいけないことだけは解る。
 どこよりも大きな焼き鳥にえいとかぶりつくと、尾丸も負けじと頬張った。
「おお、辛っ」
 ぴりりとしながらも甘い鳥信の特製タレはいつもどおりで、色々と滞ったこの体にも血が巡りはじめた気がした。
「そんなに難しい顔しなくたって、卒業くらいなんとかなるだろ」
「そうそう、行けばいいだけなんですから。霧島ゼミは別名、ももぐみゼミって呼ばれてるんですよ。幼稚園と一緒で誰でも卒業できちゃうから」
 無口なマスターは笑うと可愛い顔をしていて、尾丸は相変わらず子どものように無邪気である。
 いつも通りでどこか特別な、いい夜であった。

「たぬきたん(奇譚)」第十二話

[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香