たぬきたん(奇譚)第十六話

 駅のホーム。
 先程までタオル片手に待ちぼうけをしていた人々の、表情が変わる。
 たくさんの人を乗せて、黄色い電車が僕の視界のとおくで動き出す。
「通過列車ばっかりだから、夏はきついよなぁ」
 ちょうど良く冷房の効いた室内で、僕はミルクを水面に流し入れる。
 珈琲の上でうずを巻くミルクと、江古田駅のホームに揺れるかげろうを交互に見やる。暇、というやつである。
 シャノアールの窓側、この席で、何年この風景を見てきたのだろう。
 なんて格好のいいことを言ってみたものの、本当のところ、ここに通うようになったのもここ五年くらいの話だ。
 この古いビルの一階、平成のはじめにカラオケ館ができた。それが一号店だというのは、実は最近になって知った。
 その頃はまだオンボロ駅舎が建っていて、駅前にはいつも大勢の学生たち。小さな僕にとってはみんな“怖いお兄さん”だった。
 パーラートキの明るいおばちゃん。やぐらの、やさしいおにぎり。
 人も場所もめまぐるしく変わってきたけれど、僕にとってはいつもの街で、変わらず居心地のいいままだ。
 僕は、尾丸洋平。
 この街で生まれ育ち、今も羽沢町の実家から都内の大学に通っている。
 爺ちゃん婆ちゃん、父ちゃん母ちゃん、妹と僕の六人暮らし。
 小さい頃は親子四人で旭ヶ丘のボロアパートにぎちぎちと生活していて、週に二日ほど、ゆうゆうロードの中ほどにあるビルの二階の学習塾まで通っていた。
 学校帰りに江古田市場を通って塾にいくことは、学校で買い食いが禁止されていた僕にとってはとてもスリリングで、友達に自慢できる唯一のことでもあった。
 その頃は大泉に住んでいた婆ちゃんが江古田にやってくるたび、妹と僕を西村文具に連れて行ってくれることも最大の楽しみだった。
おそらくこれからも、僕がお嫁さんをもらえることを前提として、の話だけれど、ここに住み続けるのだと思う。
「苦っ。やだ、お砂糖入れるの忘れてた」
 シャノアールでココアフロート、と決まっていた僕も、脆弱な胃腸のためを思って夏でも温かい珈琲を注文するようになった。
 大人になったんだなぁ、としみじみ思って飲みこむと、お腹のあたりがほっかりと落ち着くのだった。

 たしか今日みたいな夏の暑い日のことである。
 テスト前ということもあってか登校する生徒の数が増え、蒸し暑さはいつも以上だった。
 講義を待つ大講堂の中で、学内に仙人がいるという噂を耳にしたのだ。
 仙人の出で立ちは、作務衣を思わせる黄ばんたシャツとジーンズ。ぼさぼさ頭で小脇に書物を抱えているらしい。
 下駄をカラコロ鳴らし歩きまわるが、聞こえるのはいつも音だけでその姿を見たものは少ないのだという。
 喫煙所で見かけたという声を聞いた僕が走って向かったのだけれど、吸殻入れから怪しげな煙がゆらゆらと揺れているだけ。そのあと何度も煙に巻かれ続けた。
 それでも、僕はひょんなことからその仙人に助けられ、その後も何かと行動を共にするまでになった。その経緯は皆様もご存知だとおもう。
 池袋駅で見かけたその人が、同じ西武線に乗り込むのを見つけて驚いた。そのうえ僕と同じ江古田で下車したのでもっと驚いた。
 同じ北口を目指して歩いたので、どうしても僕がうしろから付いて行く形になってしまった。その人は急に振り返って、こう言ったのである。
「どこか、涼しくなれるところを知らないか」
 それが、大山田五郎。大山田先輩であった。

 その顔にははっきりと、くまができていて、そのおどろおどろしい雰囲気に僕はやっとその人が妖怪や仙人といわれる所以を理解したのだった。
 まるで覇気のないその人に、八百屋で真っ赤なソルダムを買ってあげて、二人で小さなその赤いのをかじりながら線路沿いを歩いた。
 僕が向かっていたのは稲荷神社。
 線路を渡って右の小路をはいると、気休め程度のつめたい風が吹いた。
 ちょうど団地の影になるこの通りに、高校から帰宅する僕の面影がみえる。僕の秘密の場所―。
「先輩。本殿があるあの高いところ、あそこに豊島軍の死者を葬ってあって、それを護るためにお稲荷さんが祀られてる、という言い伝えがあるんですよ」
 石畳をあるくと、足の裏からひたひたと音がするような、そんな静寂。
 日中の暑さのせいか薄暗い雲がまたたくまに集まって、雨の降る前の、湿気を含んだあの風が肌にまとわりつく。
 ますます薄暗い境内に、またあの風が、今度は少し強く吹いた。
「うわああっ」
 突然、僕の二の腕、いちばん柔らかいところにじめっと温かい何かが張り付いたので思わず声をあげてしまった。
 振り向くと、一歩後ろを歩いていた先輩がしっかりと僕の腕をつかんでいたのである。
「もうちょっと早く歩いてくれ。それから、雨がふりそうだから、早めに引き上げてビールでも飲むぞ」
 こわばった顔の先輩はそう言うと、ばつが悪そうに手を引っ込めた。
 暗くなりはじめた空の下で、目の下のくまはますます影をつけて、顔全体が土色になってしまうのではないかと思うほどだった。
「そうですね、近所の子どもたちがよく育つように子守塚にお願いしてから帰りましょう」
 先輩の返事はなかった。
 無言で手を合わせる先輩。僕はこっそりと、この血色の悪い男の健康を願い手を合わせた。
 幸い大粒の雨と雷がやってくる頃には、僕らは座敷のうえで足を伸ばして冷えたビールに喉を鳴らしていた。
 台湾屋台村の座敷のうえを、店主の息子であろう小さな男の子が走ってゆく。
「なんかいいですよね、自分の家が、お店やさんだなんて。もう少し大きくなったらお手伝いもするんだろうなあ」
 僕の家族は商人ではなかったけれど、学校の帰り道、今日一日のいやなことが吹っ飛ぶくらい甘い煮豆をつまみぐいさせてくれた惣菜屋のおばちゃんや、足し算を習ったばかりの僕によくお会計をさせた八百屋のおじちゃんの顔が浮かんだ。
「先輩は、これから、就職ですか?」
「できるんならとっくに就職しとるわ、あほ。どうやって社会の片隅でひっそりと生きていくか、今考えているところだ。お前はどうなんだ」
「二十数年、もう飽き飽きするほど眺めてますけど、やっぱりこの街が好きなんですよ。都内にしては何もないけど、これ以上何もない街にしたくないので、何かできないかなぁって思って。公務員の勉強してるんです。街の個性はやっぱりいろんな個人商店だから。もっと若いお店や団体を老舗になるまで支えてあげられたらいいかな~なんて。変わらない顔ぶれで、みんなで歳をとれたら素敵じゃないですか」
 朝起きて、忙しく働いて、子育てをして、ご飯を食べて、慌ただしく毎日が過ぎていって。大人も、子どもも育つ場所。そんな毎日の基盤になる場所を僕は大事にしたい。
「そうか」
 先輩はそう一言だけ言ってビールを一口飲み込み、下を向いた。
床についた染みを数えるようにじいっと見つめていたかと思うと、突然、まだ手のつけていない餃子のお皿を僕の前に差し出して「全部食っていいぞ」と小声で言った。
「いえ、半分こしましょう。先輩は大物になる気がしますよ、僕は。お互い体力つけて頑張らないと」
 お世辞を言ったつもりはない。
きっと人にはいろんな役割がある。僕とまったく違う場所で生きていくのであろう先輩を前にして、なんだか寂しくなってしまって目の前の餃子を次々に放りこんだ。
すぐに空になった皿は、向かい合う僕らの真ん中でぽつんと、静かに天井を見つめていた。

「たぬきたん(奇譚)」第十七話

[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香