私の名前は大山田五郎。
北風に吹かれながらため息漏れる、大学九回生である。
皆様には幾ばくかのご心配をおかけしているようで、心苦しい限りである。しかしながら、私はちゃっかり、生きている。
木々が色付く晩秋の景色にも、移ろいゆく街の装いにも気づかず、時間だけが過ぎていった忙殺の数ヶ月。
というのも、いよいよ城を出ることを決意したためだ。
九年という長い月日、だいがく、というところに籠城していた。
世間様からも社会からも守られた至極安全な場所であり、ひどく窮屈な世界である。
私ほどの人材がこうして九年もの間くすぶっている事実は社会にとって大きな損失であろう、と重い腰をあげた訳だが、それらは、飽きた、と一言で言い換えられなくもない。
後輩、正確に言うと昨年までは後輩であった尾丸と共に、日々卒業論文の制作に励んでいる。
尾丸はちょうど私の隣室のゼミに所属しており、古い校舎のせいもあってか、壁の向こうから届く彼の苦渋の叫びが、毎日私に夕刻を伝えるのであった。
「ううっ、もう、無理ですよう…あと三十枚も書かなきゃなん…おええっ…」
論文に加えて公務員試験のための勉学に励む尾丸は遅くまで黴くさい校舎にこもりきりで、ただでさえ小柄な男が、江古田に帰ってくる頃にはまるで茶の間のこけしのようにこぢんまりしてしまう始末だった。
時計をみると十九時を回っており、私はううんと伸びをしてから、机にうず高く積まれた書籍をどっこら持ち上げて、机の下、足元のずっと奥の方に仕舞うのであった。立つ鳥、机は汚さず。
肩凝り、という言葉をはじめに使ったのは夏目漱石だという。
漱石殿、我輩は限界である。
鉱夫のごとく身体もこころも酷使した私の帰宅を、あなたは許してくれるだろうか。
道草に三四郎のラーメンでも食べよう、それから、南湯の門をくぐって今日は早々と夢十夜だ。
「五郎さん、もう帰るんですか。さっき昼寝したばっかりじゃないですか、進んだんですか?」
同じゼミのケイという男が、これまた薄汚れた顔で話しかける。
「五郎さんて、窓際族ならぬドア側族ですよね。一番先に帰っちゃうんだから。僕は朝までコースでいきますよ、今日」
どいつもこいつも戦うことが正しいと信じてやまない。
鼻で返事をして、空気の淀んだゼミ室をあとにした。
カタカタと山手線に揺られながら思い浮かぶのは、市場跡、ぽっかりと空いた土地を覆う、茶色の土。ジャケットのポケットに押し込まれた型の古いプレイヤーから流れる、なんだかおかしな歌。どこもかしこも駐車場、どこもかしこもちゅうしゃじょう、とその歌は繰り返した。へんてこな歌詞と伸びやかな声が、妙なバランスを保っているのであった。
すいすいと池袋駅の人波を抜けて西武線のホームまで辿り着く。
二番ホームの先客はまばらだ。歩幅が大きくなる。
それでもこの時間帯の駅は人々のため息で溢れており、揃いもそろって辛気臭い顔ばかりしおって、とひとりごちる私の顔が一番すすけている気がして、私まで、ため息をついてしまった。
ひがしながさきー、ひがしながさきー。
池袋からの帰路は毎夜、思いのほか短い。
論文の一説を思いついてさあ練り直そうと思う頃には、見慣れた景色に囲まれていて少々がっかりしたりする。
江古田まであと数歩、という場所の踏切にて、ふらりふらりと泳ぐマリモが目に留まった。
マリモのようなスガ子の緑色の髪の毛を、黄色い列車が揺らしている。スガ子は視線に気づいたのか否か、とにかくこちらに向かって白い歯を出し笑った。
体の半分以上あろう大きさの鞄や、キャンバス、マネキン。
両手をそれらの荷物に翻弄されたスガ子はこころなしかいつもより小さく、暗闇にひとり立ち尽くす、ごく普通の女子大生だった。
―卒論を書いたはいいが、私はこれからどうするのだ―。
なんだか呑気にラーメンをかっこんで風呂に入っている場合ではない気がしてきた。
これではいつもと、今までと、同じではないか。
だからといって南口の“でじま”で優しいお母さんにおでんの具をよそってもらいながら「吾郎ちゃんさ、牛すじたべなよ、あんた好きでしょ、元気出るよ、牛すじ。あなた最近カサカサしてるよ」と世話をやいてもらっている場合でもないし、カラオケ館で勝手にしやがれを熱唱している場合でもないし、そるとぴーなつでジャズなど嗜んでいる場合でもない。そもそも私は今、どんな場合なのだ。
悶々と改札をぬけ歩きだすと、降り立ったのは下宿のある北口ではなく、学生で賑わう南口であった。
「ナポリタン…」
そうだ、今の私に必要なのは深呼吸をするための広いソファと、考えるための熱量炭水化物。それから少々の甘やかし―。
気がつくとメルのボックス席でナポリタンをかきこみ、恥ずかしげもなく巨大なパフェを頬張る私が居た。
肉の焼ける匂いと一緒に、奥の方から大きな歓声が上がる。団体席でウイスキーを呑みながら学生たちが声高に話すのは、冬休みのタイ旅行についてらしい。
決まっている、というのは平和な響きである。
音もなくメルの扉が開くと、使い古しのタオルみたいな女が私を見つけた。
「やだ、大山田くん、奇遇ね。私も今帰りなの」
返事も待たずに私の向かいに腰かけたスガ子は「パスタグラタンあるかしら。それからこの人と同じパフェをひとつ」とせわしなく注文を済ませ、やっと両手の荷物をおろした。
「課題出してきたの。そしたらさ、誰かの模倣に見えるしいやらしいオマージュもバレバレだから、こんなの榊先生は気に入らないだろうって。最終評価の榊先生に嫌われたら最後だよ、だって。長いものには巻かれろ、ってこと?もう嫌になっちゃう」
アツアツで出てきたグラタンの中から、スガ子によって細長いパスタが次々に巻かれる様子を、なんとなく眺めていた。
血が巡ってしゃきんとした洗いたてのタオルになるまで、今日は見守ってやることにする。珍しく穏やかな気分である。
「大山田くん、卒論頑張ってるんですってね。でも、そのあとは?就活、してないのよね」
「…い、今ちょうど、それを、これから…」
直球でストライクを狙ってくるのがこの女の常であり、私は動揺などするはずもなく、それでも食べ終わったパフェのグラスに残ったクリームを何度も何度もかき回すのであった。
「ま、いいんじゃない。まずは卒論よね」
早くもメーンを食べ終えパフェの皿を自分の前にしっかり引き寄せたスガ子は、細長いスプーンを私の目玉に向かって突き出して言った。
「疲れるとね、いろんなものに憑かれちゃうんだって。お祓いなんかする前に、まずは栄養補給と、睡眠よ」
近頃、先祖の爺にでも取り憑かれたかのような覇気のない同志。尾丸はおそらくまだ学校に残って泣きべそをかいている。
私は携帯を取り出し、アドレス帳の中に見慣れた名前を探すことにした。
よく食べ、よく寝て、明日がくるのだ。
やっとのことで人間になれたような、新しい心地がした。
[表紙]イラスト/鈴木まど香