たぬきたん(奇譚)第十九話

 例年に倣い、今回も午後十六時ぴったりに論文の提出は締め切られた。
 ぴったり、というだけあって一秒たりとも待ってはくれない。
 十五分前、スーツ姿の見るからに事務方の男が何人もやって来る。
 五分前、彼らは会場である一〇七号室の扉に手をかける。最後の六十秒をかけて、一〇七号室の扉はゆっくりと閉じられるのである
 スーツの男たちだけではない。五分前ともなれば多くの学生がわらわらと集いはじめ、吹奏楽部のラッパ隊はファンファーレを、ラグビー部のスクラムを組んでただそのときを待つ。
 ふらりとやってきた生徒たちも一緒になって、最後の五分間、論文片手に駆け込んでくる大馬鹿者を呑気に見やるのである。
 駆け込み祭。我が校のちょっとした催事であり、騒ぎの少ない冬場には大変都合のよいイベントだ。
 無論、私はそのような野次馬たちを避け、はやめに学食でカレーライスをかきこんでから一〇七号室に向かった。
 昼下がりの廊下にうっすらと差し込む西日。
 冷えた手足を光の方向へ差し出してみるとほんのりと春を感じるほどで、石造りのロビーを穏やかな心持ちで進んでいった。
 五十人ほど収容するであろう一〇七号室の教壇に、なだらかな丘が見えた。背をまあるくした、村上教授だ。
 村上教授はこぢんまりと座っておいでで、陽の光にぽっかり照らされるその御姿はあまりに牧歌的であった。
 彼女は窓から差し込む光の下、膝上の文庫本をゆっくりと撫ぜていた。
 私は音もたてずに彼女のもとへ歩いてゆき、冊子と年期の入った学生証を教壇に置いた。
 ふと、顔をあげる。陽だまりの中央にひかる教授の柔らかなお顔。仏の顔であった。
「あなたが、例の、九年生の…ええと…」
 仏はゆっくりと口をひらいた。
「ああ、そうだ、大山田くん」
「いかにも」
 私も落ち着いて返答する。
「覚えているわ。あれは、そう、八年前ということになるわね。私のドイツ語の授業に出てらしたでしょう。あなたドイツ語なんて見向きもせずにギリシャ語の文字を何度も練習したり、ノートの端っこのほうに小説みたいなのを書いてたのも、知っていたわ。九年も、ずいぶんと、色々と、学ばれたようね。た~いしたもんだ!」
 あっはっはと声を出して笑うと、黄色く頼りない歯がみえた。しかしどこか上品さが漂って、きっと毎日美味しいお紅茶を嗜むのであろうと思われた。
 提出を終えた私が喫煙所でひとりタバコをふかしていると、中庭の向こうで体いっぱい手を振る男がひとり。尾丸である。
「せんぱーい!卒論は?出したんですか?うわぁ、嘘みたいだなあ」
 尾丸が早口でまくしたてる。
「実はね、僕も報告があるんです。公務員試験、受かってた、受かってたんですよォ!やりましたよ!」
 尾丸は私の手をにぎると、千切れんばかりに振り回した。
「おお、やったな。お前もついにお役人か」
「今晩は祝いましょう。お酒も解禁しましょうね。なんなら今から飲みに行っちゃいますか!」
「すまんがまだ単位が足りなくてな。四限の講義にでなくちゃならん」
「あらら。じゃあ夜ですね。お祝いは、絶対コンパですね!」
 私は興奮した尾丸を置いて、四限の宗教学の授業へ向かった。
 その足どりはこころなしか、今朝より軽い気がした。

 この楕円の入り口をくぐるのは、何時ぶりだろう。
 久しぶりの酒であるし、空きっ腹に酒はよくないだろうと坂井精肉店でかつ丼をたいらげてきた。江古田コンパへの準備は万全である。
 階段をかけあがり厚い扉を開けると、手前の角のカウンターには既に顔の赤い尾丸と、珍しく機嫌の良いスガ子が腰掛けていた。
「やだあ、ゴロウちゃん。卒論出したんだって~。今日は飲んで飲まれて~ハッスルしちゃいましょうね~。ハッスルハッスル!」
 明るすぎるママの声とストーブの温かさに、やっと肩の荷をおろした。
 右手のあずま袋と一緒にすべての荷がおりた気がした。
「おつかれ、大山田くん。ねえ何にする?はやく乾杯しましょうよ、待ってたんだから」
「今日飲むんだったら《エコダの夜》しかないですよねえ、しぇんぱい」
「おいおい。一杯目だ、もっと軽いのから飲ませてくれ」
 二人の顔が少し大人びてみえたのは、薄闇の中せいだろうか。
 私の元にもグラスが運ばれてきて、ママの「イッちゃえイッちゃえ」という掛け声に合わせてまずは静かにグラスを鳴らした。
「では改ためまして、大山田くんの卒論提出と、尾丸くんの試験合格、私の個展開催決定を祝いまして」
『乾杯!』
 いつもはすぐにビールで遠慮なく喉を鳴らすのだが、今日はひとくち舐めるように飲んで、熱さをかみしめた。
「みんな揃ったことだし、報告会って感じにしましょうよ」
「せっかくのオメデタイ会なんですから、過去の報告なんてやめて、今後の抱負でも発表しましょうよ。そういうの、ちゃんと聞いたことなかったから」
 もうすっかり出来上がっていた尾丸が、ポッキーをかじりながら言った。
 抱負なんて言葉に少々狼狽して、カミカゼをまた一口飲んだ。
「じゃあ言い出しっぺの尾丸くんからね」
 スガ子が笑ってグラスのストローをゆっくり一度まわす。
 アメリカンレモネードの臙脂と黄色が、ぬるりと混ざり合った。
 江古田の夜は、まだまだこれかららしい。

つづく

[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香