たぬきたん(奇譚)第三話

たぬきたん(奇譚)

 そろそろ江古田の人々にもおなじみ、大山田五郎である。
 こうして平日の昼間に街を散策することが私の日常であり、そのためであろうか、今年で大学の八回生になる。
 一週間というのは思いのほか長くて草臥れるもので、水曜は安息日として公共浴場で残り数日のエネルギーを蓄えることにしている。この男、尾丸が一緒でなければ最高の安息日であるのになあ、と湯船にため息の波をたたせてみたりする。
「先輩、ここは熱っついですねぇ。よくそんなに長く入っていられるなあ…」
「今日はとりわけ混んでいるのだ、黙って入れ」
 駅の北口から浅間神社に沿って少し歩いて、ひとつめの角を左に曲がると日本の働き盛りにおなじみ松◯の一号店がお目見えする。記念すべき国内一号店であるのだから僅かでもアピイルというものをしてもよいようなものだが、この店の謙虚さは付け合せの生姜のようで実に心地が良い。私はそんな呑気な牛丼を軒先の猫程度に愛してやまない。
 松◯を右折するとついに音大通りに出るのだが、ついに、という接続詞がなんとも似合わぬ寂れた商店街で、鼻歌でも歌えばすぐにふてぶてしい狸の待つ浅間湯に到着する。私が江古田に住み着いたのはこの浅間湯の護り狸との深い因縁によるものであることは既にお話した通りである。
 まだ四時半だというのに男湯は江古田のヒルズ族によって賑わいを見せていた。
 暇を持て余すじいさまたち、通称「昼ズ族」が一番風呂目がけてやってくるのであるのである。
 時間はよぉ、売るほどあるのよ、でもさ、金がねぇってばよ、いやははっ、と隣の爺様に向かってなんべんも愚痴を垂れたりする。自分の股間に視線を戻しては珍しい動物でも見つけたみたいにもう一度眉間に皺を寄せる者もいる。
 私と尾丸が険しい顔で湯船に浸かっていると、じいさまが椅子取りゲームの要領で黒いしみだらけのケツをぐいぐいと満席の湯船に押し込んできた。
 じいさまの使う米ぬかせっけんの簡素な香りは実家の台所を想わせる。
「でもアレだなあ、市場も無くなってよ、老舗もどんどん閉店しちまったよ。この街も面白くなくなってくのかねぇ、若い店はコロコロ変わって居着かねえしさ、昔は人がわんさか居てよかったよ。なあ、昔はよかったよ」
 恐らく会話の相手であろう隣のじいさまは達磨みたいにまんまるの赤い顔、目も口も立派な一文字にして、ときより顎を動かすだけである。
 生存確認の必要性を問うたところで達磨がバア!と目を見開いたので私は危うく尾丸の頼りない肩にしがみつくところであった。
「昔はさ、よかったよ、な?」
 じいさまは返事の有無も湯の効能もさして気にならないようで、言いたいことだけ言い終えるとさっさと湯船からあがろうとした。その足はまるで茹だったゲソだ。
 そのときである。
 くぅ、と私はつい情けない声を出し、尾丸に関しては声を発する隙も許されなかった。ほんの一瞬の出来事であった。
 あろうことかそのジジイは私たちにケツを向けたまま放屁をしたのだ。物事が音もなく遂行されるとき、それは多くの場合において厄介な事柄を含んでいる。
「先輩、僕もうギブです…」
 既に熱さの限界を迎えていたのだが、やむなく若く小ぶりな二隻の船は湯の底に沈むしかなかった。

「先輩、さっきの、どう思います?」
 脱衣所で頬を赤らめながら尾丸が尋ねてきた。
「あのジジイ、昨晩カップラーメンでも喰らったな…」
「もぉ、屁の話じゃなくって。昔はよかったって話。高齢の店主たちが店を閉めていく流れって、自然なことじゃあないですか。それに世の中に大きな企業が増えてどんどん便利になっていくのも、人間が望んだ進化のひとつでしょ?
 例えそれが自分たちの生活とか生き方の首を絞めるような矛盾を含んでたとしてもね、それが人間の愚かさなんですよ。それは認めざるを得ない」
 尾丸はウサギのついた真新しいパンツをなんとも清々しく穿いた。
 話に付き合いながらも私の頭の片隅では自販機の誘惑が離れなかった。
「街はどんどん変わっていくものなんです、時代は変わるんです。新しい店を老舗にしていくのは市民ですからねえ。大手の店にばっかりお金を使うようになっておいて、街がつまらなくなったって嘆くのは違う気がするんだよなあ…ノスタルジックになるだけなんて、非生産的です」
 尾丸の火照った顔は、ちょっとした情熱をも含んでいるようだ。
「それにしてもお前、まるで経済学部のような洞察力であるなあ」
「あれ先輩。僕、ずっと経済学部ですけど…」
 ガコン―。
 私の微かな驚きの声は機械から落ちてくる冷えたビールの音に消された。毎度、誘惑に勝てたことはない。
 隣で尾丸がフルーツ牛乳をチュウチュウやっている間、私は真面目な顔でこの男との出会いについて思い返していた。
 経済学部だと?この男と出会ったのは他でもない、私の専攻しているフランス文学の授業であったはずである。

 その日私が数か月ぶりに重い腰を上げ大学に向かうと、その日の教材は「椿姫」であった。大学生にもなって椿姫かと私は早くも後悔した。
 ここまでの交通費を瞬時に計算してからもう一度自責の念に駆られ、とりあえず一番後ろの目立たない席を選んで座った。
 往復の交通費で買えたもの、伊勢屋の五目握り飯を数個と焼き団子、ランガイのガパオライス、等々。
 教授は一通り話を終えると一人の生徒に感想を述べさせようといつもの嫌味な声で適当な出席番号を呼んだ。
 しかし呼ばれた男はぽろぽろと涙を流し嗚咽に似た音をときどき発するだけで、とてもまともな日本語にすらなりそうもない。教授のおでこの皺は一つ増え、二つ増え、そのうえ赤くなった。
 教授が前列に居た女生徒に耳打ちをしたので、女はなんともお粗末な扱いで男を連れ出していくのであった。
 私が二人の後をこっそりつけていき医務室を開けたとき、その男、尾丸は半べそをかいたまま「うつ病チェックシート」を書かされているところであった。それを救出したのが何を隠そうこの私である。
 この男は決して情緒不安定で泣いていたのではない、誠実な少年アルマンと情婦マグリットの悲しい恋にただ涙していたのだ。
 そんなことすら見抜けぬ教授の鉄の感受性に辟易した私はテストの裏面にたっぷりと詭弁を垂れ、落第生たちの中で聞いて噂の「F」という貴重な単位を獲得した。
 F―私の前に姿を現すな―。

 浅間湯を出て、まだ火照った熱をあたりに撒きちらしながら二人駅へ向かって歩きだした。
 空の端っこあたり、ピンクを帯びてきたところを尾丸は指さして笑った。
「僕、先輩の噂を聞いてキャンパス内を探し回っていたんですよお。そしたら先輩らしき男がフラ文の授業にたまに出席しては隠れて三島◯紀夫を読んでるって話を聞いて、潜り込んだんです」
 シャンプーの新鮮果実の香りを漂わせながら尾丸はいつもに増して饒舌である。
「あの後、僕が何度も話しかけるけど先輩は無視して歩いていっちゃうもんだから、追いかけて、そうそう、先輩は振り向いて僕の事『閣下』なんて言うんで『あ、僕のが後輩なんで尾丸って呼び捨てでいいですよお』って言ったんですよ。ああ、懐かしいなぁ」
 なんという、素晴らしきトンチキ。
 「閣下」ではない。フランス語でCACAとはウ◯コのことである。
 私は子犬のように馴れ馴れしい尾丸をうっとおしく思い、追い返そうと罵ったのだ。
 幾年か経った今、尾丸は立派な金魚の糞として私の後ろに控えている。
「先輩、夕飯はプアハウスの激辛カレーでまた熱くなるってのはどうですか?」
「本当にお前はあつくるしい男だな…」
 私が呆れて後姿を眺めていると、急に尾丸が振り返る。女よりも白く骨ばった肩に果実の香りを乗せて。
「そうと決まれば引き返しましょ。プアハウスはあっちです!」
 陽気に振り返る尾丸の笑顔と一緒に飛び込んできたのは他でもない、私の一張羅のバンドTシャツである。
 待て、じゃあ私が着ているのは!

 黄ばんで生成色になった肌着が夕刻の風と一緒に運んでくる、台所の香り。
 夏の気配を感じたのであろうか、肌着はテロテロと私の薄い胸板にはりついて離れなかった。
 下弦の月がよく映える、初夏の夜であった。
 市場通りの八百屋の真ん中でステテコと履き古しの便所サンダルだけ身に着けた爺様が、立派な胡瓜を片手にくしゃみをした。

「たぬきたん(奇譚)」第四話

たぬきたん

[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香
[協力]ハルノビ(練馬)、虎の子屋(江古田)、大橋屋(江古田・新江古田)、ねっこカフェ(江古田)、暮らしを美しむ店環(江古田)、喫茶ポルト(江古田)、いちカフェ(江古田・新江古田)、中華総菜 ねん(練馬)、オイルライフ(江古田)、みつぼし(江古田)、パーラー江古田(江古田)、のらりくらり(江古田)、みつるぎカフェ(江古田)、ネコカヴリーノ(新江古田)、ヴィエイユ(江古田)、ランガイ(江古田)、喫茶プアハウス(江古田)、浅間湯スタジオラグーン(江古田)、練馬・桜台情報局、ネリマガ、ねりま街づくりセンター