たぬきたん(奇譚)第五話

たぬきたん(奇譚)

 私は大山田五郎。江古田に住まう大学生である。
 モラトリアムとサマーのヴァケイションをことごとく無駄にしながら時は流れ今に至る。大山田の夏の大輪廻は今年、記念すべき八回目を迎える。
 都内でも一、二を争う垢抜けなさ・夏の気温の高さを誇る練馬区から逃げ出すこともできずに、今年も既に夏休みの数週間が過ぎようとしていた。
 本日も身を隠すため、銀座通りのなんとも平凡なビルの二階「えびせん」にて息を殺す。宿敵は他でもない、ここのところ幅をきかせるこの猛暑と差し迫る金欠である。
「せんぱい、やっぱりその帽子、わりと変だし暑そうです。ホーチミンあたりの湿気を思い出すんですよ。あ、でも日本でも川下りの船頭さんが被ってますけどね。ああ、もう、あっつい…maimaiでバーバーバーでもぐいっといきたいなあ!」
 この「えびせん」は小さいながらも、今ではレトロなビデオゲームを中心に全国に名を馳せるゲームセンターである。
 尾丸は不鮮明な世界で戦闘機を爆破することにいよいよ飽きたようで、さっさと席を移動すると座面の冷えた箇所を求めて尻をこまめに動かしては麻雀ゲームで女子の制服を脱がすことに必死だ。
 薄暗い部屋に、ゲーム屋特有の機械臭、頼りない男の背中が合わさって夏の哀愁が一丁あがる。

「煩い、煩い。ガラクタ屋に行って、そうしたら幼児用の麦藁帽子かこの傘しか売ってなかったのだ。これを買わなきゃ、替わりに天狗の面を買わされるところであった」
「ズルい!僕もガラクタや一緒に行きたかったのに…」
 尾丸はまた随分と年下の二次元女子におあずけをくらって小さく舌打ちした。
 別段この男をガラクタやに連れてゆくことなど容易である。が、この暑さだ、あの店の姉さんは店を閉めてぐうすか昼寝をしているかもしれない。
 よっ、と近所のおやじが挨拶をするような気軽さで私に店番を頼んで、当人は珈琲を買いに行くといった前例が数多くある自由人なのである。

 店内ごうごうと蠢く扇風機。あたまの北半球をぱかりと開けてみると、飛んでいきそうな意識とともにアイスクリームやカレーライス、赤くてまあるいゲームのリモコンが大きな鍋でごうごう煮え立っている。熱すぎる鍋の中で泡を立てて私の意識がはじめに溶けていった。

 巷の学生は夏になると海水浴だ、バアベキュウだ、金を使うレジャアにウツツを抜かすのが流行らしい。
 テトリスの要領をなによりも実務として必要とする作業「袋詰め」ができないがためにコンビニのアルバイトをクビになった私にとって、この夏はまたも黴臭い六畳一間と天井のシミ、第三のビールに喰い殺されるであろうと覚悟はしていた。
 ところが毎年襲ってくるこの類の不安はこの夏、わりとあっさりと吹き飛んでしまったのだ。
 日本には祭というハレの儀式が存在し、運が良ければきっぷのよい爺様に酒をおごっていただくことさえある。この日に限っては金などなくても音頭さえとれば万事が奏功といってもよい。
 虫の干からびた匂いと、湿気た風。
 浴衣の女のうなじの汗と水うちわ、気配を消してそれを追いかける少年の尻ににじむ緊張。
 風鈴、仏頂面の親父の喉に麦酒が流れる音。
 子どもの音頭に拍子ひとつ遅れる婆さんの手拍子。
 気づけば一銭も払わぬまま夏の気配に腹を膨らますことができる。
 先月の栄町の盆踊り大会には貴重な五百円玉一枚で参戦したのにも関わらず、気付いた時には両手にワンカップを握りながら北口広場のベンチの上で眠りについていた。
 尾丸に関して言えば想い人の粋なハッピ姿を見て、胸がいっぱいで明日米騒動が起きたとしても僕は一揆には参加しませんね、と十ぺんは言った。
 それからやぐらを囲む踊りの輪に必ずと言っていいほど存在するのが、凄まじいキレ味で踊る爺である。
 服装は決して町内会お揃いの浴衣などではなくヨレヨレの肌着にステテコと決まっていて、新聞屋の粗品タオルをひっかけた程度の軽装なのである。
 出がけの服を選ぶときには恐らく使わないであろう神経を指の先までビビビとはしらせ踊り続けるその姿は、きつねの憑依を危ぶむ程だ。
 その踊りに私たちは敬意を表し、音頭がとぎれた頃あいで声をかけたのであった。爺は前歯が黄色く斜めに綺麗に欠けており、笑っただけでハイライトの臭いが鼻をついた。
 練馬音頭を教えてくださいと言った私たちが物珍しかったのか、爺は踊りを教えるどころかワンカップを手渡して乾杯を強要し、一気に飲み終えると赤子が泣きだしそうなほど大きなゲップをした。
 あか、あお、みどり、ピンク色のビー玉みたいなカクテルをすごい形相で見つめる爺に「これはモヒートっていうカクテル、一応お酒です。そこに好きな色のシロップ入れるんですって」と教えてやると、四色全部を注文し、洒落っ気なく呑みほして「こんなのジュウスじゃねえか、こら、おっぱい触らせろ」と喫茶ポルトのスタッフの女学生に食ってかかるので私と尾丸でひたすらにペコペコと頭を下げた。
 透き通った紺色の空と提灯の橙、浴衣の朱。
 酒のまわった頭にもかかわらず、しっかりストローをひっくり返してから爺の残したピンクを一気に啜った。

「‥せんぱい!聞いてます?もうギブです、ギブ。アイスコーヒー飲みにいきましょうよお。七百円は残ってるから、いちカフェで先輩の分もおごってギリセーフです!」
 尾丸の声で薄暗い店の中に引き戻される。
 またも席を替えた尾丸の見つめるビデオ画面の舞台は商店街、筋肉の付きすぎた女子高生と、これまたえらくガタイのよい男が甲高い声を響かせ戦っている。邪魔をするつもりは毛頭ないが、商店街での闘争はご遠慮いただけないものだろうか。
 軽く相槌をうって二人「えびせん」をあとにした。
 炎天下のもと数分歩いてゆくと、右手に「生活の城」が見えてきて、今年何度目かわからない「ああ、夏なのだ」という感覚をかみしめるのであった。
 それぞれにこの場所に対する呼び名があるようだが、私は一貫して生活の城と呼んでいる。生活の様々なものが誰にも真似できない絶妙なバランスで積み上がり、アーチは年中七夕のような賑わい。
 爆発する個性が江古田に季節の訪れを伝えている。
 城のてっぺんにてビーチボールとビニールの大きなイルカが今にもあの愛らしい声をあげそうで、「あ、今年プール行ってないなあ」と尾丸も隣で小さく呟いた。
 練馬病院を目先に捉えたそのとき、ただの汗ではない、なんだか冷っこいものが私の背筋にひとつぶ垂れた。
 尾丸は病院の角を曲がるやいなや声をあげた。私の予感は的中した。
「スガ子さあん!あ、ガラクタ屋の姉さんもいる!なに磨いてるんですかあ?」
 いちカフェのウッドデッキで静かに水鉄砲を磨く女たちには戦闘前の静かな空気が漂っていた。
「あららら、いい獲物が来たんじゃない」
中からチャコさんが顔を出し、「チャコさあん!」と懐く尾丸のTシャツに向けて小さな一撃をくらわした。右手には、いつものお盆とお冷のかわりに小さな水鉄砲。
「店じまいしてから、みんなで水遊びしようかって言ってたところなの」「大山田くん誘おうと思って午前中から電話してるのに、どうして出ないのよっ!」「その傘、ほんとにかぶってるんだ!やっぱりそれ似合うのは五郎ちゃんだけだと思ったんだよねえ」
 女が三人揃えばかしましいことこの上ない。
 蝉たちの喧騒はますます女たちの喉にビールを流し込む。
「ふふ、みんないい歳して、女子みたい」
 店じまいを手伝う尾丸に刺さった三つの視線に私は気づいていた。女たちに気づかれぬよう、下駄をそっと脱いだ。
 このところ、夕刻の空はあおとピンクのなんともいえない色に染まる。
 本日それが戦闘開始の合図である。
 覚悟はできている。
 思い切り吸い上げた空気は湿っていて、むせ返るほど生温かい。
 永遠に終わらないような気がしていたあの頃の夏を思い出した。

「たぬきたん(奇譚)」第六話

えこだきたん

[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香
[協力]ハルノビ(練馬)、虎の子屋(江古田)、大橋屋(江古田・新江古田)、ねっこカフェ(江古田)、暮らしを美しむ店環(江古田)、喫茶ポルト(江古田)、いちカフェ(江古田・新江古田)、中華総菜 ねん(練馬)、オイルライフ(江古田)、みつぼし(江古田)、パーラー江古田(江古田)、のらりくらり(江古田)、みつるぎカフェ(江古田)、ネコカヴリーノ(新江古田)、ヴィエイユ(江古田)、ランガイ(江古田)、喫茶プアハウス(江古田)、浅間湯スタジオラグーン(江古田)、練馬・桜台情報局、ネリマガ、ねりま街づくりセンター