たぬきたん(奇譚)第十二話

たぬきたん

 私の名前は大山田五郎。
 午後二時、千川通りを西へ下りながら、私はゆっくりと歩いている。あたたかな春の日に照らされる、辛気臭い男である。
 枝々が乾いた風に揺れた冬もおわり、桜の木は一番の大仕事を終えてもなお葉桜の若緑をきらきらと光らせている。
 歳も三十に近い男が平日、しかもこんな時刻に木々が萌えるのを眺めている様は、この街にどう映っているのか。
 恐らくは風景の一部としてしれっと馴染んでいることであろう。
 江古田の街は三つもの大学を抱えている。
これほどの若者が集まれば、割合として必ず一部の人間が学校をドロップアウトしかけているのである。変わり者というラベルを貼られた者たちが昼間からうろうろと徘徊する風景は特記されることもなく、程よい無関心に護られている。
 私が本日行くべきであるのはこの街の大学ではない。
池袋へ各駅で出たあと山手線に乗り継いで数駅の、賑やかな街まで通っている。トントンと一定のリズムに揺られる列車移動は心地がよい。
 それでも本日こうして江古田にとどまっているのは、惰性によるサボタージュを楽しんでいるわけではない。
 本日は、大変なことに、入学式なのである。

 私の通う大学は、いくつもキャンパスを持つマンモス校である。
 特に文学部のあるメインキャンパスは、虫のように人がうじゃうじゃとわいてくるような巨大なキャンパスで、入学シーズンには人の波に逆らう強い意思をもたない生徒は目的地へ辿りつくことができない。
 各所でサークルのおそろしく執拗な勧誘を受け、広いキャンパス内を北へ連れて行かれたかと思えば、こんどは南のはしっこまで連れて行かれる。無論ここで問われるのはノーといえる勇気である。
 「最初は飲み代無料だからさあ、とりあえず友達も誘って一度顔だしなよ~。うちはホントに厳しくなくて楽しいからさあ。騙されたと思ってここに電話番号と名前、書いちゃって~」などと煽る上級生たちは近い未来、羽毛布団をお年寄りに売りつける団体に就職するつもりなのだろうか。
 気立てのよかった田舎娘も一年もすれば「うちは美人も多いしい、泊まりの旅行もあるから、マジ一度、部室のぞいてみてよ~」と強制連行の技術を見事取得することになる。
 本間美香という新人アイドルの写真会に出席するミカリン愛好会などまだまだ可愛いほうで、サークルとは名ばかりの、日々の鬱憤を創作ダンスとして披露し褒め合う会や、ヒッピーよろしく自由な行き方を模索して講堂の前で瞑想をはじめる怪しげな集団。
 どんな変態も、モラトリアム、自由、という言葉を掲げれば立派な大学生として認められる。素晴らしく混沌とした世界が大学である。
 これはあくまで私の通う巨大なキャンパスの話であって、江古田の大学は幾分こじんまりしていて心地がよさそうだ。
 四月、希望に満ちた新入生の横顔とすれ違うたびに、私のように人の波に疲れてしまわないことを祈らずにはいられない。
 揺れる枝葉のすき間から見え隠れする、小さな看板。最近買ってないし、ちょっくら寄ってみようかー。
ココナッツディスクの扉をそっと開けた。春の風が私のうしろから吹き込んできて、ごお、と鈍い音を立てどこかに消えていった。

「あれ、大山田くん!なあにやってんのよ。昨日から九年生になったんでしょ?学校で後輩をぶいぶい言わせなきゃだめじゃないのよ」
 ここのところ、この街で運良く鉢合わせることのなかった女が、本日、運悪く目の前に立っているのだった。
 菅山節子、通称スガ子である。
 スガ子の自慢は緑色のまあるい頭でありながらも、前回見かけたときには色が抜けはじめており、みどり、黄みどり、黄色の部分が段々になってまるで放置したピーマンのようであった。しかし目の前のスガ子は今朝採れたてのズッキーニだ。
 「ああ、これ?染めなおしたのよ。毎度のフェスタでやってもらいましたよ。キョウコさんもさ、今回はよく染まったねえ、向かいの八百屋に売りつけてやりたいくらいだね、なんて言うのよ」
 「へえ」と適当に相槌をうって、目の合わない角度の棚でディスクを漁ることにした。
 ふらりと入ったレコード屋で今まで長いこと探し続けていた逸品に出逢うことがある。ただし、そんな奇跡はたいてい一人のときにしか、起こらない。
親指の皮脂を頼りに、そもそも私は乾燥肌なので、えいっと気合を入れないと油が出ないのだが、今回は運良くスガ子のおかげで冷や汗をかいていたので一枚一枚丁寧に文字を追うことができた。
 スガ子は芸術学部の二回生、いや、本日より三回生である。
 まんまる緑でキテレツな色彩のその頭も、全てアートで片付けてしまえるから都合がよい。
 髪の色だけではない。以前は動物のモチーフに異様な好奇心をしめしていて、帽子には象のながい鼻がついていたし、黄色いシャツにはキリンの横顔がプリントされていてポシェットは轢き殺されたカエルのシルエットの形をしていた。靴下はしまうま柄で、履物の上では数えきれないほどのネズミが元気よく走り回っていた。そのときは「江古田の歩く動物園」と至極真っ当なコメントをしてスガ子を憤慨させた。
 見たところ今回のテーマは懐かしの八〇年代といったところで、もう春だというのにバブルをおもわせる毛皮のコートを羽織っている。中のワンピースは爪楊枝みたいな細いからだにぴったりとくっついている。「そうそう、丁度電話しようと思ってたの。今晩、和田屋に一八時に集合だからね。予約してあるから、何か予定があるんだったらそっちをキャンセルしてよね。まあその調子じゃ予定なんて無いんでしょうけど」
なんともぶしつけな女である。先に会計を終えたスガ子がそんな捨て台詞をはいて足早に出て行くと、染めたての緑色の頭は千川通りの木々にまぎれて消えていった。
予定がないのだろう、とまで言われて黙っておれなかった私は洗剤と便所紙をドラッグストアで購入すること、という予定を即座に組んで店をあとにすることにした。先ほどまで脇に抱えていたディスクはそれぞれの棚に戻した。
 一八時五分ー。私は駅前をうろうろしていた。
 正確な時間に登場するなど、いかにも楽しみにしていましたと言わんばかりである。
 十八時が確かに過ぎたことを何度も確認してから和田屋の扉の前に立った。
 古い家屋のくせしてやけに反応のいい自動ドアが、じい、とひらく。
 『ハッピーバースデー!』
 いらっしゃいませより先に聞こえた掛け声の先にはスガ子と尾丸、練馬在住の学友、あきつ君や冷水さんまで。
 勢揃いでジョッキを鳴らし、ほどよく苦いビールとともに事態を飲み込んだ。本日私はまたひとつ歳をとるらしい。
 「はい、先輩、プレゼント。みんなからです」中には先ほどココナッツディスクで棚に戻したはずのレコードが三枚。スガ子の顔を見つめるほかなかった。
 「ここ数日あそこに通って、大山田くんが好きそうなやつを選んでもらってたの。でも今日バッタリ会って、手間が省けたわよ」
 「先輩、絶対にその場でレコードを買わないですからね。一度家に帰って同じのが無かったかどうか、ジャンルのバランスも考えてから買うんです。だから今日もまだ買ってないだろうって」
その後の宴は日付が変わる少し前まで続いた。ふざけた尾丸が和田屋の天井についた大きな鐘を鳴らそうとして怒られたり、スガ子はその横で和田アキコを熱唱しはじめたりで、それはもう、かしましい夜であった。
 便所に行くついで、なんだかやかましくて申し訳ない、と声をかけると「なーに、昔は看板を持って行っちゃったり柱によじ登ったり、もっとすごかったわよ」と店のおばさんは笑った。
 私たちはよほどおとなしく酒を呑み、人様にそれほど迷惑もかけていないらしい。昔の学生たちよ、私を見習うがよい!
 「だからってあんた、九年もかかった子は聞いたことないよ」
 学生街の母が帰り際に見せた呆れ顔と、ぼそりと呟いた一言が下宿へ向かう夜の空の下こだまして、なかなか消えてくれなかった。

「たぬきたん(奇譚)」第十三話

[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香