私は大山田五郎、江古田に住まう平々凡々な大学八回生である。
大学を三つ抱えるこの街で、キャンプだ、海だ、バーベキュウだの安価なレジャアの話題で色めき立つ季節が今年もやってきてしまった。
初夏の日差しが昼飯迷走に早々とブレーキをかけたため、私はいつも通り南口ランチハウスのエビフライ定食をと心に決め重たい足に命令するのであった。
本屋の店先にて旅行誌にむらがるギャル。地球の歩き方を熟読する青年の日に焼けて立派な肩をかわす。
南口のこの通りはわりあい商店の間隔が狭く、昼どきともなればこうして人の波にのまれつつ駅に向かわねばならない。
やっと駅前広場を線路沿いに曲がったところで風を感じることができた。
ランチハウスは安定の大男たちで溢れかえっており、有線のRCサクセションが少々疲労の出始めたこの店のお母さんを励ますように歌っていた。
なんでもここではA・B・Cランチを夜に注文できるという噂がある。しかし奥で豪快に鍋を仰ぐ、整った顔ながらも迫力のあるマスターにおののいて、私は未だ夕暮れ時に「ランチ」の三文字を発することができないでいる。
エビフライの横に鎮座する薄いオレンジ色のタルタルソース。残った白米の最後の一口をその泉にそっと浸そうとした、そのときである。
デーデーデン、デーデデン、デーデデン。
ダースベ◯ダーのテーマが店内を不穏な空気にしたばかりか、厨房からマスターの鋼のようにするどい一瞥をくらった。スガ子からの着信である。
「大山田君、今江古田にいるわよね?助けてほしいの。
ピエール・ツヴァウストラ・ピケが居なくなったのよ!」
「…とりあえず復唱を願う。今食事に集中してたところだ」
「もうっ!ピエール・ツヴァウストラ・ピケ。略してピッピ、私の文鳥よ!居なくなっちゃったの!」
スガ子は勢いだけでしゃべり終えて、ふうとため息をついた。ため息をつきたいのはこっちのほうである。
「話の意図がサッパリわからん。主語と述語と目的語と、相互理解に関する心構えを勉強してからかけ直してくれ…」
「探すのよ、ピッピを!あなたの行間理解能力のほうが文学部としては致命的だわ!報酬として根元書房であなたが欲しいって言ってた 全集、買ってあげるから。どんな手段を使ってでもなんとかして!」
女というものはいつの時代も末恐ろしく、私が日大前にある根元書房にて近年狙っていた全集を餌としてぶら下げてきたのである。無論この事は口外していなかったはずなのだが。
スガ子によると、ピエール・ツヴァ…通称ピッピは真っ白く餅のようなふくよかな体、深紅のくちばし。子供の拳ほどの大きさしかないのだそうだ。
不可能という文字は私の辞書にはしっかりと載っている。不可能なことの一例として今後は“小鳥の捜索”を追加しようと心に決めたのであった。
機械によって仕入れた安易な情報によると、文鳥は仲間の声に引きよせられることがあるという。
確か千川通りに何百もの小鳥が並ぶ店があったような気がする。記憶を辿り、また黄色い声飛び交う小路を戻って銀座通りを歩き出した。
途中、銀座通りで看板を磨く長い髪の女性と目が合った。
私が密かに読書に通う喫茶店の前だ。
化粧はうすく、凛とした黒髪はひとつに束ねられている。意思をもっているかのかのごとくまっすぐまとめられた黒髪が、非常に好ましい。
日を浴びた彼女は店内で珈琲を淹れる姿とはまた趣を異にしていて……おっと、この話はまた後日。
江古田のギンザを抜け、千川通りの日陰をみつけては野良猫のようにすばやく東へと急いだ。桜の季節は賑わうこの道だがそれ以降人影はまばらである。
この江古田の街は、これといって何もない。それどころか練馬区は埼玉県だと馬鹿にする輩も多い。
ところがこの街の人々は諦めている。
何もない街で、月並みな生活を送ること。そこでそれぞれが役割をもらって芝居をする。その芝居は傍から見れば時に滑稽で、時に可笑しい。
うん、これでいいのだ。そう言って目配せし頷き合うような、そんな街だ。
千川通りの日差しはますます意地悪く肌をさす。
耳をすませるものの、聞こえるのは文鳥の繊細な鳴き声ではなく雀の井戸端会議ばかりである。
巣鴨の商店街で意中の女性を探すのは、もしかしたらこんなふうだろうか。
目指す店までまだ数メートルあるというのに、キュンキュン、ピイピイ、ビャービャーと漫画のような擬音語の数々が耳についた。
私はピッピがここにはいないことを既に悟っていた。この狂乱の声は決して「仲間の親しみやすい声」ではなかったのである。
店には鳥を求める先客がいたけれども、店主らしき爺様は私の額の汗の量に気付くやいなや救済の手を差し伸べてくれた。
文鳥は人に飼われていた場合は特に飛ぶ力が弱く、そこまで遠くはいっていないという。
人懐こいので誰かのところに身をよせている可能性もある、と丁寧に説明をうけた。のにも関わらずとにかく外野の鳥たちの声があまりに煩わしく、私は爺様の唾がペッと飛んでくるほどの距離まで顔を近づけなければならなかった。
スガ子のアパートは確か新江古田駅から五分ほどだ。ピッピはまだその辺りにに居るのだろうか。
「今度は新江古田か…」
精を付けようとかきこんだエビフライの油が消化を目前に分離しそうな気がした。
それからどれくらい歩いたであろうか。この辺りの小路はどこを入っても住宅地に迷い込むだけで、気付くと同じところをぐるぐる回っている、という体験を幾度もした。
「きらり☆旭丘ラビリンス」なんて陳腐な歌謡ができてしまうほどに私の心は疲弊していた。
尾丸からの着信により、私の中で鳴っていた「キラリ☆旭丘ラビリンス」はサビ前のいいところで中断された。
「せんぱ~い、今どこにいます?ピンチなんですよお…」
どいつもこいつもトンチンカンな電話ばかりかけてきて、私の平穏な日常の邪魔ばかりする。
「お財布、忘れちゃって…でももう頼んじゃって、お花。プレゼントだし、もう花束にしてくれちゃって…」
「まあ、落ち着け。それでお前は今どこに居るんだ…」
尾丸は新江古田駅を降りて大通り沿いの花屋にいるのだと弱々しい声で言った。
花屋、花屋…。やっと民家の迷宮から抜け出たはよいものの、駆け抜ける大型車のガタゴトいう音に乱されて目白通りは不愛想な街の装いであった。
それでも行ったり来たりしているうちに、大通りの向かいに一つの電飾を見つけたのである。
目白通りから南に向かって二本、Y字型に道が続いている。その二本の道に挟まれたちょうど三角地帯に電球がひとつ、夕刻を告げていた。
緑の生い茂る小さな小屋はぼやあと三角地帯を照らす。異様な静けさは、そこからもうひとつの世界に行けるような気さえした。
その霞んだ奥のほうで、小ぶりな顔が浮かんだ。尾丸である。
―NECO QAVREENO―
吊り看板の上ではまあるいお尻をふりふり、花をくわえたオブジェの黒い小鳥が一羽。その隣に黒を惹きたてる純白の鳥が―。
ピエール・ツヴァウストラ・ピケはまるで異世界への入り口の門番であった。
重厚な名前がこのときばかりはちょうどよかった。
せんぱ~い、と尾丸が私を見つけて目を輝かせる。「あれ、その文鳥知ってるの?」店主も奥から顔を出した。
後に私は尾丸の注文した花束の代金を全額負担したうえ、ピッピを連れて帰るためのカゴまで購入することになったのである。
「そういえば尾丸くん、そのお花、誰にあげるの?」
ネコさんと呼ばれるそのひとは小学生の男の子をからかうときの顔で笑ってから、手元の花をそっと撫でた。
にょきにょきと長く、猫のしっぽに小さな白い花がぷちぷち咲いたような不思議な花であった。
「もお。内緒ですってば」
尾丸と二人おかしな名の花屋をあとにした。
「あ、夕焼け」とほほ笑む尾丸の首元にとまったやぶ蚊を、見ないフリして歩いた。
[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香
[協力]ハルノビ(練馬)、虎の子屋(江古田)、大橋屋(江古田・新江古田)、ねっこカフェ(江古田)、暮らしを美しむ店環(江古田)、喫茶ポルト(江古田)、いちカフェ(江古田・新江古田)、中華総菜 ねん(練馬)、オイルライフ(江古田)、みつぼし(江古田)、パーラー江古田(江古田)、のらりくらり(江古田)、みつるぎカフェ(江古田)、ネコカヴリーノ(新江古田)、ヴィエイユ(江古田)、ランガイ(江古田)、喫茶プアハウス(江古田)、浅間湯スタジオラグーン(江古田)、練馬・桜台情報局、ネリマガ、ねりま街づくりセンター