たぬきたん(奇譚)第六話

たぬきたん(奇譚)

 私が大山田五郎。
日々の諸用に忙殺されておられる皆々様の貴重な時間を護るべく、二秒で自己紹介を終える心のやさしい男である。
 しょんべんたれの田舎者が都にへいこら出てきてはや数年。現在はこちら江古田の街に居を構える。
 カメムシを捕まえては瓶詰めにしてしまって、自らの臭さで息絶えるのを眺めていた幼少時代。そんな愛らしい息子のため今月も大量の果物と大束の歯ブラシの入ったダンボールが届くのであった。
 無論、信濃の実家からの荷物である。
 とにかく今回の桃などは山程あったところであの愛らしい割れ目を眺めて日頃の鬱憤をぷりっと忘れられるからよい。
 それにひきかえ毎月の大量の歯ブラシはどうだ。どんなに粗雑に扱ったって一ヶ月にひとつで十分なシロモノが毎月大量に届くと思うと、恐怖さえ覚える。母の愛はいつでも極太、かためである。
 ワイン片手に日々夜空を見あげカルパッチヨをつまんだりと、さぞかし都会の桃色な暮らしを満喫していることと我が両親は想像している。
 実際のところゲームセンターフタバのネオンは時代の垢をまとってピンクというよりは妖艶な桃色であるし、昨晩だって好々亭にて、味付けする前のカルパッチヨをつなげて大きい塊にしてから粉をつけてコボコボと音を立てる高温の液体に放り込んだものを白米、麦酒ともに食しているわけだからそう大差はないかもしれない。
 そのフタバも閉店が決まった。
 いつの時代も愚民の生活に吹きぬける流行の風とやらに一言申したい気分である。
 例年より早く秋風吹くこの街にも、鼻の下と剃り残しの頬毛をぴいひょろ伸ばした男が一人―。

「せんぱ~い。下の厨房にも聞こえちゃうでしょ。足でドンドンやるの止めてくださいよお」
「ふん、意気地のないお前にかわってモールス信号で愛を伝えてやろうと思ってな」
 昨年惜しまれながら幕を閉じた市場のアーケード跡を見下ろし、カフェのらりくらりの二階席にて優雅な昼めしである。
 カルパッチオではないものの、少々炙った魚と、アボカドとかいう田舎の農協お野菜直売所ではお目にかかれない洒落た野菜がのったご飯だ。
 この男・尾丸の恋の作戦Bに費やす経費としては大袈裟とすぎる気もするが、まあとにかく「のらりくらり」という貧弱な名前は気に入っている。
 何を隠そうここの店長アイバさんというまたトンチのきいた姉さんが、尾丸が熱をあげるお相手であるというのだ。
「もおっ、余計なことしないでくださいよ?ね?長いこと通って、差し入れ作戦も重ねて、やっとこさ、デートに誘おうっていうのに」
 アイバさんも尾丸も、そこの八百屋のおやじの靴下が左右ちぐはぐであってな、などとこぼした日には腹をねじって転がるほどの笑い上戸であり、ふと自分の足元を見下ろしたらなんと自分の靴下もちぐはぐでまた笑いこけるような、随分と牧歌的な人間である。
 意外とお似合いかもしれんな―。
 私としては珍しく寛容な態度で、尾丸と目の前のサーモンに向き合うのであった。
 命懸けで帰省した息子が炙られ、華のない男に最期を捧げるとはご両親もさぞご心痛であろう。アーメン、サーモン。
 空はまるで古い綿ぶとんをしきつめたように重たい。今にも雨粒が落ちてきそうだ。
 まだ江古田市場があった時分、このあたりには雨の音に消されることもない力強い婆様たちのおしゃべりや、八百屋が雨除けにかざすダンボールの湿った匂い、くたびれた帰路の足取りを軽くしてくれる甘辛い惣菜の湯気など、そう悪くない雨の日常があった。
 いまやサラ地となりぽっかりと淋しい。
 これは私のような心の貧乏人が少しでも安いものを求め、また無駄な干渉を避けてきた結果であり、よって私が市場の終末を嘆く権利などない。
 それでもこの惜別の念はオイルライフにて長いこと狙っていたスプリングスティーンに関する書籍を購入し、その足でみつるぎカフェに行き、濃い珈琲とともに拝読するといった本日の充足した経済活動へと結びつける。
そんな念の残るサラ地の横を、マリモのような緑のまん丸が移動するのが見えた。
 スガ子である。私はとっさに窓から遠のいた。
なにを血迷ったのかスガ子の髪は緑色で、最近は上塗りした緑が落ちて根本の方だけ黄色がかっている。
 放置されたピーマンの様相である。
「あ、スガ子さん鯛焼き買ってる…」ガレットの上のソーセージを頬張りながら尾丸も江古田の街を静かに見下ろしていた。

「せんぱい!」
 尾丸は一人で決起集会を終えたようで、突然立ち上がり私の顔を覗き込んだ。
 小さな顔に一本だけ剃り残された頬毛がひょろん、と、私を小馬鹿にしているようだ。
 想定二・五センチほどの頬毛はなんともいまいましく、危なく尾丸の頬をひっぱたくところであった。
「いよいよ、参ります。ご足労、たてまつりました手前、ここは僕がもちます。払っときます。それでは、オサラバでござんす!」
「おいおい、落ち着け。そんなに緊張していたら先に笑いの種に火が付いて、デートどころではなくなるぞ…」
「ああっ、やっぱりダメだ。冷たい紅茶なんか飲まなきゃよかったですよう。冷えちゃったのかな、お腹痛いですよう」
 さすがはヘタレの国の王子様こと、尾丸洋平である。
 江古田生まれ江古田育ちのこの男は昔からこのオマルという姓に関してまわりの男児から馬鹿にされていた。
 ここ市場通りを毎日びいびい泣きながら家に帰ったのだという。
 泣きやまぬ尾丸に、市場の皆は甘く煮た豆やら果物やら練り物やらお土産に持たせてくれたそうだ。おかげで家につく頃にはすっかり泣きやんでいるという、現金な男でもある。
「よおし、ここは男、いくでざんす!」
尾丸は勢い良く立ち上がるとリュックサックに入っていたこげ茶色のパーカーをかぶり、しっかりと腹をガードしたうえで戦地へと下って行くのであった。
 むむ…待て尾丸!
 先程から極度の緊張によりおかしくなった日本語は百歩譲ってよしとして、だ。そのパーカーはいけない、だめだ、江古田の人々の前で、しかもあんなに笑い上戸の彼女の前で、あれを着てはいけない、おい、待て―。
 私の心の声も虚しく、尾丸は階段を転がるように降りていってしまった。

 尾丸が着ていたのは十年以上前に婆様に買ってもらったという、江古田南口のランドマークBeBeのロゴパーカーである。
 当時大きくて着ることのできなかったパーカーは、謀らずも本日恋の特攻服となった。
 それみたことか。一階から二人の笑い声が響いてきたので老婆心から狭い階段をひょこひょこと下っていくと、言わずもがな笑いの起爆剤は尾丸のBeBeパーカーである。  
「あ、せんぱい、帰ります?僕もそろそろ…」
「ふふふふ…じゃあ、BeBeの前で」
「はい!BeBeの前で」
 私は耳を疑った―。
 尾丸は、見事に約束をとりつけたのだ。パーカーを買ってくださった婆様もきっと涙を流して喜ぶに違いない。
 二人店を出ると、雲間から差す光が尾丸の胸のロゴマークを照らした。
 男心と秋の空、か―。
 いやいや、私をそこいらの男の数にいれてもらっては困る。
「私はこれから本を買ってから珈琲を飲む。ついてくるなよ」
 ブラウンの染み渡った芸術的な木目の家具に囲まれ、黒髪の美女の淹れた珈琲を飲む。開け放した窓から時折冷たい風がページをめくる。
 胸が踊って、気づけば市場通りを走りだしていた。
「せんぱい、襟もとに米粒が…」
 市場通りの雑音に混じって聞こえた忠告通り、かぴかぴの米粒を中指でぴんと飛ばして走った。

「たぬきたん(奇譚)」第七話

たぬきたん

[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香
[協力]ハルノビ(練馬)、虎の子屋(江古田)、大橋屋(江古田・新江古田)、ねっこカフェ(江古田)、暮らしを美しむ店環(江古田)、喫茶ポルト(江古田)、いちカフェ(江古田・新江古田)、中華総菜 ねん(練馬)、オイルライフ(江古田)、みつぼし(江古田)、パーラー江古田(江古田)、のらりくらり(江古田)、みつるぎカフェ(江古田)、ネコカヴリーノ(新江古田)、ヴィエイユ(江古田)、ランガイ(江古田)、喫茶プアハウス(江古田)、浅間湯スタジオラグーン(江古田)、練馬・桜台情報局、ネリマガ、ねりま街づくりセンター