たぬきたん(奇譚)第七話

たぬきたん(奇譚)

 私の名は大山田五郎。
 江古田に住まう大学八回生であり、江古田一早く炬燵を出してきた男でもある。
 私の住む下宿はデイダラボッチのすかしっ屁で吹き飛んでしまいそうな木造四十二年の大御所家屋であり、たてつけの悪い窓の隙間からは小さな侵入者や夕刻の冷たい風、サラリーマンのため息さえ受け入れるなんともグローバルな住居である。
 本日炬燵の中で足をつつき合うのは小顔で色白、真夏の喫茶店でカーディガンを欠かさない男、尾丸洋平である。
 日の暮れなずむ秋空を眺めながら男二人、お手製のラーメンすごろくに勤しむ姿はさぞかし滑稽であろう。
 一晩かかって作り上げたこのラーメンすごろくはラーメン激戦区江古田を舞台にしたすごろくで、各コマにはそれぞれ個性的なラーメン店の名と住所、定休日まで書かれている超大作である。
 しかも少し回り道をするコースには桜台や練馬、東長崎のラーメン店まで網羅しており、私の日頃の努力を披露するよい機会となった。
 みし―。
大御所家屋の階段は見事にきしむ。
「あれ、地震ですかね」先に気がついたのは尾丸であった。
 どうしたことか足音は黴臭いこの部屋、まさにこちらに向かっているのである。
 ヒッチコックは「卵を割るとき、黄身が落ちてくる瞬間が恐怖である」と語った。恐らく確かであろう瞬間を待つというのは、いつの時代も不快であるのだ。  
 しみだらけの扉の向こうで足音が大きくなる。
 募る不安と興奮が頂点に達したとき、ドアは開いた―。

 怒りの感情による扉の開閉であることは明らかであり、それからすぐに、開いたときの何倍も大きな音をたて扉がしまった。と同時にこの下宿自体がどかん、と揺れた。
 ねじの具合がどうにも不調で、一瞬でも配慮を怠ると恐ろしいほど激しく扉が閉まるのである。まるで恐怖映画のワンシーンのように。
私には鍵をかけるという習慣がない。利用者たちには常々、扉に関して細心の注意をはらうよう指導してきたはずだった。
「ああ、重い。重すぎるわよ」
 緑色の髪の毛を振り乱しながら荷物を粗雑にばらまいた。紙袋から転がる金棒に気づいた尾丸が「ひゃっ」と小さく呻いたが、よく見ればフランスパンであった。
歩くお化け屋敷、菅山節子。通称スガ子である。
「なんの用だ。紙袋でパンなど買ってきおって、洒落ているつもりか」
「今季のゼミ提出用に今晩ここで撮影会をしようと思ってね。ヌデシマとハシヅメたちも後で来るから。今、小道具に使えそうなものを色々買ってきたのよ。ねえ、ここってシミったれてるしなんだか陰鬱な感じで、撮影所としてはすごくいいわよ!」
 江古田にやってきた当初は、雨風しのぐ天井があって飲料が水道から出てくれば住居などどうでもよかった。しかし実際のところ私のような硬派でバンカラな色男はオートロックやドアホンといった万全の対策を講じるべきだったのだ。
「スガ子さん、お茶いれましょうか」
尾丸ときたら大好きなパーラー江古田のパンを一口あやかろうと、スガ子の機嫌をとりながら台所にオリーブオイルを取りにいく始末である。
「ちょっと、なによこのちんけなスゴロクは…。来月テストでしょう?大山田くん、あなたいつ卒業する気なの!」
「スガ子さあん、聞いてくださいよ。先輩ったら酷いんですよ。このすごろく、止まったコマに書いてあるラーメン屋の特徴をひとこと言っていく、言えなかったら罰ゲーム、ってルールなんですけどね。さっきなんて三四郎の煮干しの産地からなにまで、二〇分も語っちゃって。先に進みやしませんよ」
 尾丸はオイルをつけたパンを小さな顎で満足そうに咀嚼していた。そして苦言を吐いた。
「そのうえ僕が大好きなラハメンヤマンについて話しはじめたところで急にとっかかってきちゃって。僕が謝らなきゃ喧嘩になるところでしたよ。物騒なスゴロクです…」
「ふうん、まあ、災難だったわね」スガ子はさして気にもならないといった様子で机の上のぬるいビールをくいっと飲んだ。私のビールである。
 酒の席で語ってはいけないこと、政治、宗教、野球。そしてラーメン。

その後スガ子まで「私もパン屋すごろく作ろうかしら」などとぬかすので、気を利かせてすぐに反対した。
 どうせ女子同士のパン屋スゴロクなど「スイーツ」「カワイイ」など使用する単語の数は少なく小学校の国語の勉強にすらならないお粗末なものに決まっている。
 そのうえあの店員はイケメンだ、いいやあっちの方がイケメンだ、そもそもアンタの好みが変だ、イケメンの定義ってなんなのよう、あんたの彼氏なんて排水口のフタみたいな顔してんじゃないのよう、キイッ、とそんな感じになることは目に見えているではないか。
 結局スガ子も参戦したラーメンすごろくは付け合せの煮玉子の味の染み具合とそのバランスについて三つ巴となり、話し疲れた三人の喉元をぬるいビールが通過する音だけが響いていた。
 私としてはスープの味を引き立たせるためにシンプルかつ黄身の味の濃い煮玉子が理想的である。
「そういえば、スガ子さんの好きなタイプってどんな人なんです?」
 私はまったくもって無益な話題提供にうんざりして炬燵にもぐりこんだ。
「う~ん、そうねえ、ヨダさんかな」
 気の毒に、こんなへんちくりんな女にちょっかいを出されて。先方のご先祖までまとめてお呼びたてて私が代わりに謝罪をして――――。
『なんだって?』
尾丸も私も驚きのあまり飛び起きてしまった。
「ヨダさんって、あの玩具屋コスモナイトのヨダさんか?」
「去年のハロウィンにはパンダの被り物に、金棒みたいな形したぬいぐるみを振り回してた、あのヨダさんですよね…」
 尾丸は江古田ハロウィン仮装行列の際、子どもに混じってお菓子をもらいにいったものの、前衛的なヨダさんの仮装におののいて逃げ帰ってきたのである。
「あれはねえ、愛らしいだけじゃない、パンダの凶暴性をも表現していたのよ。ショーウィンドウに並んでるお手製の怪獣にしろ、彼、立派なアーティストだわ!そのうえ子どもへの対応といったら、よくテレビに出てるおハゲでちんちくりんの教育評論家よりよっぽどマトモなんだから!」
 歳の差の問題ではない。パンダの問題でもない。それでも二人が並んだ時の迫力を思うと冷や汗がにじんだ。

 まるで迫力の無い男たちの耳にも、階段を無遠慮に登ってくる幾つもの足音は届いていた。
「あっ、やっと着いたみたいね」
 スガ子が玄関にかけていくのと同時に私たちは避難の準備をはじめなければならなかった。幾度もの経験が二人を焦らせた。
 分厚いジャケットを押入れから引っ張りだす。尾丸はおばあちゃんの手編みの白いマフラーをこれでもかと巻いた。
「よし、準備は良いか」私は小声で尾丸を呼んだ。
「オーライです。僕の案では、走ったあとですから、破顔の汁なし麺あたりが妥当かと思います」
「異存はない、いくぞ」初めて二人の意見があった瞬間であった。
 まもなく扉が開いて、予想通りスガ子に似た怪獣のような女たちがわらわらと侵入してきた。
 お邪魔しまあす、ではない。人のお邪魔になることをしてはいけない。
 近くにあった便所サンダルに飛び乗って、奴らの間を鉄砲玉のようにすり抜け走りだした。
「ちょっとお!手伝ってもらうこと沢山あったのにっ」
 スガ子のヒステリックな声が後ろで響いたがとにかく走った。
 本日を悪しき気分で終わらせないためにもとびきりのディナーにありつかなければならない。
 それにしても、どうにも違和感がある。
 あれは―。
 私の家だ―。
 なぜ自宅から追放されねばならなかったのか―。
 乾燥した唇に冷たい風が吹いて、きりきりとしみた。

「たぬきたん(奇譚)」第八話

たぬきたん

[発行]ガラクタ出版(ガラクタや ネバーランド)無断転用複製複写禁止
[表紙]イラスト/鈴木まど香
[協力]ハルノビ(練馬)、虎の子屋(江古田)、大橋屋(江古田・新江古田)、ねっこカフェ(江古田)、暮らしを美しむ店環(江古田)、喫茶ポルト(江古田)、いちカフェ(江古田・新江古田)、中華総菜 ねん(練馬)、オイルライフ(江古田)、みつぼし(江古田)、パーラー江古田(江古田)、のらりくらり(江古田)、みつるぎカフェ(江古田)、ネコカヴリーノ(新江古田)、ヴィエイユ(江古田)、ランガイ(江古田)、喫茶プアハウス(江古田)、浅間湯スタジオラグーン(江古田)、練馬・桜台情報局、ネリマガ、ねりま街づくりセンター