私の名は大山田五郎。
下宿の万年床と街歩きをこよなく愛する男である。
清々しく新年を迎え、はや数日が経とうとしていた。
街にはめでたさの欠片はおろか人の影すらまばらで、恐らく、ひょっこり顔を出す野良猫の数のほうが多い。
開いているのはコンビニとカラオケ、チェーンの丼ものやくらいのもので、どうにもやる気がない。北風だけが音をたてていた。
そういう訳で街歩きをはやくも諦めた私は、最近私の下宿にやってきた陶器のたぬきとともに、この正月休みを寝床で過ごそうと決めた。
この新入りたぬき、むちむちと旨そうな太い足を妖艶に組んで木の葉で小股を隠している。
よく街で見かける信楽焼の狸に比べると、とにかく迫力が無い。
格好はまるで休日のおやじのようで、今にも垂れ流したテレビの雑音が聞こえてきそうだ。この珍妙なたぬきにひと目惚れをし、五千円ほどはたいて家に連れ帰ってきた。
私は物心ついたときから多くのたぬきたちを収集してきた。その数は恐らく二十、三十をゆうに超える。
かれらを丁寧に磨き上げ陳列するのが大山田少年の日課であり、この下宿の狭さゆえ上京することを許されなかったことは今も心残りである。
実家の部屋、西日の入る六畳間であったのだが、そこにはそれぞれのたぬきの定位置があった。
右からよくお目にかかる種類の信楽焼の狸、こいつは今にもころんと転げ落ちそうな大きな目ん玉をしていた。
隣には土瓶のかたちをした狸。どんなに優しい声をかけようとも真一文字に結ばれた口元は緩むことがない。
その横にいる腹のおおきな親狸は、近所の八百屋で駄々をこねる子狸の手をしっかりと握って、立派な母の顔をしている。
その右側には分福茶釜の狸。いつも夢見心地な顔して、片手で日本酒なんか呑んでいた。
もちろん剥製のたぬきも―。
兎角、ここでは紹介しきれぬほどの個性的な狸がいた。
ときに彼らのことを思っては、田舎に許嫁を残してきたような、どうにも切ない気持ちになるのだった。
そしてちょうど一週間前。
がらくたやネバーランドの茶箪笥の一番下。扉の中で寝ていた狸と出会ってしまった。
それが今隣で寝ている、このぐうたら狸である。
「なあ、狸。暇というのは地平線のようにどこまでも広がってゆき、どうしてこう幸せなのだろうかね」
狸は私をいやらしい目で見つめたかと思うと「みゃあー」と鳴いた。
無論、鳴いたのは狸ではなく先日家族の一員となった子猫のプー太郎である。
「なんだ、プー太郎。おまえ姿をみせないと思ったら炬燵の中に居たのか」
部屋と猫と狸と私。なんとも平穏な一日である。
「おまえ、大事なことを忘れてないかい」
隣にねそべる狸がそう言った気がして、慌ててジャンパーをはおり、炬燵の電源を切って外に飛び出していた。
そういう訳で出不精な私もやっとこ、江古田湯に到着した。
暖簾をくぐるとそこはもう日常である。
ほどよい湿気と平和な歓談。
番台のじいさまがいつもの柔らかな声で「あけましておめでとう」と言った。
脱衣所は真っ赤な肌したじいさまや親子連れであふれていた。
この江古田湯はとにかく熱い。
熱いからといって油断してはいけない。
ここは数少ない「神田川式銭湯」でもあるから、きゃあきゃあカップルで訪れた日には必ずどちらかが風邪をひく。待合室がないのである。
熱さに耐えながら、せめて意識は失わぬようにと壁のモザイク画を眺めていた。首をひねると肩と腕のあたりがツンとした。
十五分か、それとも二十分ほど経っただろうか。
のぼせた私がひっくりかえり、皆様にまざまざと頼りない肉体を拝まれるのは御免である。
丁寧にいすと桶を洗ってから、ガラガラと脱衣所へ向かった。
いつもと違う清々しさを感じたのは、脱衣所を駈けぬける小さな子供たちのせいかもしれない。
久々に子供をまかされててんやわんや、パンツ一丁で飛び回る小さな怪獣を追いかけてまた汗をかく父親。そうかとおもえば慣れた様子で子供に服を着せ、瓶牛乳を品良く召し上がるモダンな父親。
ふわふと漂う温かい日常に少しばかりおセンチになったことは内緒である。
私はこれからのことについて考え込んでいた。
男湯と女湯を隔てる壁のうえから、招き猫が笑いかける。
飲むしかないでしょう―。
招き猫は多分、そう言っていた。
からからの喉にとりあえず唾を流し込んで、千川通りを歩いた。
指先はさっそく冷え始めた。
五分ほど歩いたところで親子の猿が今年も私を見下ろす。
毎年加藤材木店の次男坊により描かれる干支の絵画は、大きさ約三メートルほど。壮大でドラマチックな冬の風物詩だ。
寒空の下、筆をはしらせる次男坊の背中を想うのであった。
「うおおおおおおおおおおお」
寂しくなんかないぞ、少しばかり寒いから、走るのである。
真赤な銀行の看板を抜けて、家族で賑わいはじめた焼肉屋を抜けて走った。ちょうどよく踏切は上がって、線路に足をとられないよう走った
右手にそびえる大学のキャンパスは暗くひっそりと静まりかえって、心なしかいつもより大きかった。
言い訳をする訳ではない、私は走ることが苦手である。
日芸前商店街の途中で派手に転んだ。
漫画の一コマのように万歳しながらびたん、と転けた。
小学校は将棋クラブであったし、中学の吹奏楽部は三ヶ月で辞めてしまい、ひとり部屋の隅でラッパを吹いていた。高校は帰宅部で校内の図書館と市内の図書館の品揃えの悪さをひたすらに批評し、紀伊国屋やジュンク堂が家の前にできることを夢見ていた。
よって今、この地面にへばりついているらしい。
日も落ちたこの通りで轢かれたカエルのような私に気づくものはいなかったと思う。
「もう少しだ五郎。立つんだゴロー」
誰の声でもないただ自分の独り言に励まされゆっくりと立ち上がる。
商店街も途切れ、顔をあげれば街灯すらなく真っ暗闇だった。
ようこそー。
境界線などなかったけれども、隔てる「気配」が確かにあった。
私の前を照らすのは、たったひとつ。
赤提灯だ。
誰か私をみつけてくれ。そんな旅人の心持ちで大吉の戸をあけた。
「ああ、五郎くんいらっしゃい」
閉じ込められていた熱気が、冷えた耳たぶをゆらす。
狭い大吉の店内にはひとりの先客がいて、ちらっと私の存在を確認したがすぐ何事もなかったかのようにグラスに視線を戻した。
ここは心身疲れきった旅人たちを受け入れる山小屋のようだ。
無言で受け入れてくれる温かさがある。
事実、真冬の店内はほかほかを通りこして湯気が出そうなほど暑い。
走りに走り、からっ風を飲み込んできた私の喉にビールという水分はいくらでも吸い込まれていった。
「五郎くん、ねえ、もう店しめるよ、家でプー太郎も待ってるんでしょ、ねえ五郎くん!」
マスターが私の肩を揺らしているのがわかる。
「はじまりますねえ、なあんにもない日々が、今年も」
「だめだめ。送ってあげないよ。オイ、五郎くん!」
遠のく意識のなかで、がらくたやで購入したあのいやらしい狸と、その間をみゃあみゃあすり抜けて歩いてゆくプー太郎。その横でいつまでもごろごろし続ける私がいた。
今年もはじまるのだ。
私と、狸と、猫と。平凡で平穏なこの街で。
[表紙]イラスト/鈴木まど香